さてさて、港を堪能したあとは、漁協やらの倉庫っぽい建物を眺めながら、港沿いに車を西に向けて走らせ、太地町に向かいました。
重油男に体をのっとられた潮が、国道(42号)に出て乗用車をのっとり、拉致した高耶さんを乗せて太地町に向かっています。
(直江……ッ!)
と高耶さんが呼んでいるというのに、相変わらずあの男は…!!
あ、直江も殺されかけて大変だったのね…という説明を前ページで忘れました。ま、いっか。←とことん高耶さん至上主義(笑)
太地町へ向かう途中に、いくつかトンネルがあります。このどれかを抜けたあたりで、礼ちゃんが登場し、車は岩壁に激突したのでした。
もちろん、たとえそれが高耶さんスポットであっても、そこまで原作に忠実にはなれません。無事に、私たちの車は、次の目的地である蛭子神社へと着いたのでした。
ここでとっても助けていただいたのが、ユナコさんのツアレポ。蛭子神社は、確かに地図に載っています。国道沿いです。でも、国道ゆえに、ちょぴっとスピードが出てますので見逃しやすい。勝浦方面から走っていくと、神社の鳥居よりも民家の方が先に目に付きます。通りすぎる頃になって、「ああっ!」と気付く可能性大。Uターンすればすむけど、面倒くさいので、ユナコさん情報の目印の看板を目指すことをオススメします。


直江が八咫烏に導かれてやって来たのが蛭子神社。
港からここまで、どうやって来たんだろう…。

「境内には高耶たちの他に人気はなかった」
私たちの他にも人気はありませんでした(笑)


鳥居の向こう側に国道42号。
そして森浦湾が見えます。


当然のように鳥居のもとに座りこんでみる。
しかし、高耶さんのように難しい顔ではなく、
にやにやと顔が緩んでしまうのはしかたない。
高耶さんと同じように振りかえって鳥居を
見上げてみましたが、額はありませんでした。
何かが取り付けられていたらしい痕跡は残っていましたが…。

42号線を那智方面へと引き返して、次の目的地、那智山を目指しました。
が、その前に…42号から那智山方面に折れてすぐのところにある、補陀洛山寺に寄りました。
駐車場は20台ほどとめられる広いものですが、本堂は小さいです。
こちらは、深夜に勝浦に上陸した高耶さんたちが徒歩で訪れた那智の浜の近くにあります。
原作で名前はでていますが、スポットというわけではありません。
ですが、補陀洛渡海の寺として有名ですから、那智を訪れたからにはぜひに寄ってみて欲しいお寺です。
トオルが乗って四国へと辿りついたという八咫船も展示されていますよvv

私たちは、ものすご〜くラッキーでした。めちゃめちゃついていました。
メンバーの誰かに幸運の女神がついているとしか思えないほどに。
実は、私たちが訪れたとき、いつもは展示されている渡海船が展示されていませんでした。
「以前、友達がこちらにきて、すごく感動したと聞いたものですから…」
というあこさんの嘘ではないが内心苦笑を隠しえない言葉を聞いたお寺の方が、わざわざ、渡海船を展示している小屋の扉の鍵をあけてくださり、説明までしてくださいました。
そのあたりを撮影しまくり、寺の隣にある浜の宮大神社のあたりをウロウロしている私たちを、
非常に勉強熱心な学生と感心(したかどうかは分らない。学生じゃないヤツも混じってるし 笑)したその方が、
「今から御本尊をご開帳するから」と声をかけてくださったのです。
こちらの御本尊は、年に3回(1/27,5/17,7/10)しかご開帳されません。
この日はご開帳日ではありませんでしたが、たまたま私たちは、偶然にも、何かのためにご開帳する場面に居合わせたラッキーガールズですvv
(けっして、私たちのために開帳してくださったわけではありません。たまたまです。偶然です。間違ってもお寺に行って「御本尊を見せて欲しい」などと無理をお願いしないでくださいね)
御本尊は、三貌十一面千手千眼観世音で、平安後期の作と伝えられる高さ1メートル90センチほどの香木立像の重文。
補陀洛山寺のパンフにも写真が載っていますが、これは正面から御本尊をとらえた写真。
でも、実際に仏様を見るときに、同じ目の高さで見ることってないですよね。
当然、私たち下賎(笑)の者は、下から見上げる形になるわけで…。
見上げた御本尊様は、ふっくらとしたとても優しいお顔をしていました。写真のお顔とは、まったく見え方が違います。
これは、御本尊をその目で見ていただかないと分らないと思います。
私たちは、ほんとうに幸運でした。
御本尊を拝むこともできましたし、詳しい説明を聞くこともできましたし。
ミラージュの舞台になる前から、熊野古道や補陀洛渡海に、非常に興味があった私には、最高の出来事でした。
この日に、このメンバーで旅行をできたことに、大感謝vv
誰が幸運の女神だったんでしょう?…私でないことは確かです(笑)


補陀洛山寺正面。
こちらに展示されている「那智参詣曼陀羅」に描かれている渡海船と、
下の復元船とは密閉するための屋根の形が違います。また本堂内に
は、渡海船に使用されたと伝えられる部材も展示されています。

渡海は11月、北風の吹く日を選んで夕刻に行われたそうです。
渡海者は補陀洛山寺御本尊前で秘密の修行をし、続いて三所権現を
拝してから、那智の浜より白旗(復元船の写真の左奥)をあげて、南海
の彼方にあると信じられた極楽浄土へと漕ぎ出でたとのこと。30日分
の僅かばかりの食料を携えて…。舵のない船。黒潮の流れを考えても、
辿りつけるわけがないのは明白です。このあきらかな自殺行為ともいえ
る信仰は、江戸時代に禁止されるまで、19回行われたと記録にあります。



渡海船。ミラージュ原作では、八咫船と表記されてます。
入り口は一箇所(写真左)。狭い…。
屋形の周囲には四門及び忌垣が巡らされています。

Back  TOP  Next

 

 

 

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送